なにげなくレノファ応援日記

レノファはどこから来たのか、レノファは何者か、レノファはどこへ行くのか

宮成さん

レノファの初代監督&GMをつとめられた「宮さん」こと宮成隆さんが6月9日、お亡くなりになりました。しばらく闘病生活を送られてたと伺ってますが、頑強な宮さんも病には勝てませんでした。

わたしの宮さんに対する思いはむかし書いたとおりです。

宮さんが火中の栗を拾いにいってくれなければ、レノファというクラブ自体が存在してなかっただろうと今でも思ってます。宮さんには感謝してもしきれません。


宮さんで忘れられないのは、2009年最後の練習日のこと。
→今年最後の練習(2009.12.17)レノファ山口FCを応援してみる日記
吹雪の中ふるえながら小郡の大原グラウンドまで練習見学に行くと、康太や研太やミツたちが熱く練習している横で、シーズン中には見られないようなニコニコ笑顔で宮さんが立っていました。
今にして思えば、翌2010シーズンから月岡監督にバトンを渡すことになっていた宮さんにとって、監督としての事実上最後の日でもありました。
「今年1年お疲れさまでした!」と声をかけると、宮さんはしみじみ語り始めます。


「今年もJFL昇格を果たせずにすみませんでした。」
「自分の力不足です。ホント悔しいです。」
「でもありがたいことに全国のいろんなクラブから問い合わせをいただくんですよ。」
「レノファは決して体制も整ってない、ズバ抜けた選手もいない、なのに2年連続で地域決勝のステージまで駒を進め、勝利もあげた。失礼だけどそんな力のあるチームには見えない。きっと何か秘訣があるはずだ。一体どんな秘訣があるんですか?と訊かれるんです。」
「秘訣なんてないですよ。一つずつの積み重ねですよ。」


それを聞いて「やっぱりこの人は根っからの勝負師なんだ!」と鮮烈な印象を受けました。謙遜しながらも言葉のはしばしから感じられる強い自負心。日本代表までのぼりつめた人にしか見えない風景が、この人には見えてるんだなあと思ったものです。


この先続くけわしい道を宮さんと一緒に進んでいきたかった。
でも、宮さんは宮さんにしか残せないことを残してくれた。
命は燃やしつくすためのもの、という言葉を思い出します。


 


追記ここから≫
ネットを検索していたら『大歳小百年史』(1995年)に寄稿された宮さんの文章がヒットしました。
【PDF注意】『大歳小百年史』第5章 思い出|大歳自治振興会サイト

以下引用してみます。


35.よく遊び よく学べ
昭和44年卒 高井 宮成 隆


"よく遊び、よく学べ" 私が小学校の頃は遊んだ記憶しかありません。当時は車も家も少なく、山へ行ったり、川で魚を獲ったり、蛇などもよく見かけ、毎日が冒険のようでした。なんと、自宅前の川には蜆もいました。また、授業で堪野川へ泳ぎにも行きました。今ではとても考えられないことです。
JR山口線にはSLがいつも走り、あのもうもうとした煙がせまってくることに、たまらなく興味がありました。一歩外に出れば季節に合った遊びや場所がたくさんあり、喧嘩もしたし、悪さもしたし、色々な方に叱られることも頻繁でした。
時代の流れは早いもので、環境も人もずいぶん変わってしまいました。今は、賢い子供たちが多くなった反面、その瞬間にしか味わえない感性を失っているようです。よく遊ぶことで心身が鍛えられ、ルールや規範も自然に体得するものだと思います。
6年生のとき、メキシコオリンピックで日本のサッカーが3位になったことに感動して、私の行動も遊びから、 1つのスポーツへと変わりました。このことが今に至るまで、体育やスポーツに関わるきっかけとなったのです。
小さい頃の思いや夢、体験は、後に生かされるものだと考えます。自然に触れ、多くの友人と、泥んこになって遊んだ時代があったことを、懐かしく感じます。そして、大歳小で学べたこと、学校の百年の間に自分がいたことを、とても嬉しく思っています。

追記ここまで≫