なにげなくレノファ応援日記

レノファはどこから来たのか、レノファは何者か、レノファはどこへ行くのか

15周年リレーコラム補遺

1年ぶりのブログです。
これはもう「日記」ではなく「年記」ですね。

さて今年はレノファのクラブ創設15周年ということで、クラブが様々な記念企画を展開してくれました。

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その中の1企画「15周年リレーコラム」に私もたまたま執筆させてもらうことになり、これまでレノファを応援してきて体験したこと、感じたこと、良かったことを中心に文章をまとめ、コラムを掲載していただきました。

https://www.renofa.com/archives/column_15/column-11/

でもコラムに書ききれなかったことも何個かあるんですよね。
というわけで、今回はコラムに書ききれなかったことをいくつか書いてみようと思います。

思い起こすと、レノファが上のリーグに昇格・参入したのって2013-14(中国リーグ→JFL)、2014-15(JFLJ3)、2015-16(J3→J2)とこの連続3年だけだったんですよね。

それまでの2006-13の8シーズンはずっと中国リーグ、2016-来季の7シーズンはずっとJ2。
なので2013-2016の3年間はクラブの歴史のなかでもちょっと特殊な時期だったと言えるわけで、この3年間がクラブ(&サポ)に大きな変化と成長をもたらしてくれたのと同時に、その後のクラブの伸び悩みにもつながってたのかなーと思ったり。
特にオチのある話ではないのでコラムには書かないでおきました。

あとレノファはクラブ消滅の危機を少なくとも2回迎えてた、というのもコラムに書けなかったことです。

1回目は2008年オフのこと。
クラブ創設3年目の2008年シーズンは、初めて中国リーグ優勝して、地域決勝でもあと一歩のところでJFL昇格を逃す大健闘を見せた年。誰もが翌2009年シーズンのさらなる躍進を期待してたその裏で、クラブは消滅の危機にあったというのです。

当時のクラブ経営は火の車で試算したらとても2009年を乗り切る財力はない状況。苦渋の決断だけどレノファの幕をここで閉じよう、と決まりかけたところで「ちょっと待った」と声をあげたのが当時の宮成監督。

「ここまで選手たちが作り上げてきたのをなくすわけにいかない」「お金がないのなら自分が何とかする」「だからレノファを残そう」との宮成監督の言葉で流れは一変。消滅を撤回し、宮成監督が私財を投入しながらクラブ運営が続けられることになったんだそうです。
この話は私も今年初めて知ってビックリ。レノファが今あるのも宮成さんのおかげだったんですね。

消滅危機2回目は2011年シーズンオフのこと。
元々レノファは、Jリーグ参入だけでなく2011年の山口国体での上位入賞も目標としてたので、山口国体では期待並々ならぬものがありました。

ところがレノファを中心とした山口県はクジ運が非常に悪く、初戦の相手は当時アマ最強と言われてた鹿児島県(鹿屋体育大学)。鹿児島県は初戦の山口県にはてこずったものの、その後は次々と圧勝しながらあぶなげなく国体優勝を果たし、山口県のクジ運の悪さばかりが際立つこととなりました。

そしてレノファは中国リーグでも芳しい結果は残せず、2011年シーズンオフはクラブ存続がかなり危ういところまで来ていたようです。そこでレノファ運営陣がクラブ存続を託したのは現社長のジャンボだったのです。

そこからまたさらにいろいろあって今日に至る、というわけですが、今のレノファも曲がり角に差し掛かってるのかも知れませんね。そろそろ経営部門や強化部門への人的テコ入れが必要なんじゃないか、てな声も上がったりしてますし。

私としては、来年もレノファ(J2、レディース、ユース)を見て応援して楽しむことができれば、それで言うことはございません!