むかしのレノファサポがどんな感じだったのか。
関心をお持ちの方が結構いらっしゃるみたいなのでレノファサポの歴史をざっくりまとめてみました。
あたしもレノファ応援を始めたのは2007年からでして、それ以前のことは実はよくわかってません。
間違いがあれば直しますんで、遠慮なくご指摘ください。
前史(〜2005年)
2006年
- 2006年のクラブ史上初の公式戦(4月30日ファジアーノ岡山戦@桃太郎スタジアム)には山口から数名が個別にかけつけたものの声出し応援は特になし。
- 初のホーム戦(5月7日佐川中国戦@維新公園ラグサカ場)では「せっかく地元にクラブができたので応援してみよう」と一人で会場に来てみたら、同じことを考えてた人が約10人来てたので、「じゃみなさんで一緒に応援しましょうか」という感じでサポ応援が始まったそうです。
- この試合でも多々良高サッカー部が(おそらく動員で)レノファ応援に来ており、約10人のサポさんは多々良と一緒に応援をされたとのこと。
- 試合後、サポさんたちにクラブスタッフが声をかけ、維新ラグサカの会議室で今後のことを打合せ。そのときの話し合いの内容は……
- レノファを応援するという志を持った人は拒まないこと
- 何があろうが分裂応援はしないこと
- サポーターサイトを開設すること
- この結果、(今はもう閉鎖されましたが)最初のサポーターサイトがほどなく(確かレノファ公式よりも早く)開設されました。
- 最初のレノファサポにはJリーグ応援の経験豊富な人が多く、あまり早いうちにオリジナリティを出すよりも「一般の人たちにもなじみ深い応援をやろう」ということで日本代表チャントやJリーグの有名チャントを多用されてました。(ここで変な色がつかなかったのが、後で良い方向に作用)
- #9尾崎光選手のあまりの快足っぷりにサポの間で「俺たちのヒカル」ならぬ「俺だけのヒカル」論争が勃発。
- 10月、レノファサポがラジオ初出演(NHK山口FM)
2007年
- (この年からあたしもレノファ観戦&応援をスタート)
- 当時は選手チャントも横断幕もなく、誰がコールリーダーということもなく、それでいてきちんと統率された声援と手拍子。
- 声出し応援の人数は通常時で10人前後。
2008年
- シーズン前にサポで話し合い、ただの名前連呼型ではない少しひねった形の選手コールを有力選手に限って開始することに
→(ドンドンドンドン)カシハラ!オレ![柏原選手]
→(ドドンド・ドンドンドン)コータ![福原選手]
→タークタークターク(ドンドン)[多久島選手] - 同時にレノファ初の選手チャントが誕生
→ヤスゴール!オーオー![安田選手] - サポが作ったチーム横断幕やゲーフラもこの年に初登場→少しずつ増加
- 声出し応援の人数は少しずつ増加。
2009年
2010年
2011年
2012年
- 2枚目の大型横断幕(デカダン)をサポみんなで製作。
- 4月にヤマグチスタ公式サイト開設(→ほどなく開店休業状態に)
- 全選手の横断幕と選手チャントが出そろう。
- 維新スタジアムで初の試合開催。声出しエリアはメインスタンドはじっこ寄り。
- 声出し応援の人数は通常時で20人くらい。
2013年
- 維新スタジアムでの声出しエリアをバックスタンド(クルバ付近)に移動。
- 勝利後のラインダンス『山口一番ダンス』が定着。
- 初のスタジアムウェディングをサポ応援で盛り上げ。
- 8月の県選手権決勝からゴール裏での声出し応援に移行
→ゴール裏に移ってから応援人数が一気に急増 - 9月の島根戦では100人近くがゴール裏で応援。
- 10月のPSM今治戦では100人超がゴール裏で応援。